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東京外国語大学の歩みHistory

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キャンパスの変遷

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東京外国語学校(1897-1944)

神田区一ツ橋通町1番地 (第一大学区東京第四大区二小区一橋通町一番地)
1873年11月4日、東京外國語學校は開成学校(現:東京大学)の校舎を引き継ぎ、
神田区一ツ橋通町(現:学士会館)に建学されました。

神田区錦町3丁目14番地
統廃合を経て、1897年4月22日高等商業学校敷地内に設置され、
1899年4月4日神田区錦町3丁目14番地に移転し独立しました。
新校舎建設後も分教場として利用されました。

神田区錦町3丁目13番地
1903年、向かいの神田区錦町3丁目13番地に校舎を新築し移転しました。
1913年2月、神田周辺を大火災が襲い、校舎は全焼してしまいました。

神田区錦町3丁目13番地(仮校舎)
1913年9月、校舎の跡地に仮校舎を建設し、8年間の仮校舎の時代が始まりました。

麹町区元衛町1番地
1921年、麹町区元衛町1番地に当時としては珍しい3階建の校舎を新設し、移転しました。
しかし1923年9月1日、関東大震災により新築よりわずか2年で、
校舎は倒壊してしまいました。

麹町区竹平町1番地
1924年、文部省跡地の麹町区竹平町1番地に仮校舎を建設し移転しました。
校舎は震災復旧の安普請であり、老朽化のあまり「鶏小屋」と呼ばれました。

滝野川区西ヶ原
1933年、滝野川区西ヶ原の元海軍爆薬部跡地を移転先として確保し、
1944年5月、疎開を兼ね移転しました。
しかし1945年4月13日、城北大空襲により1年を待たず全焼しました。


東京外事専門学校(1944-1951)

板橋区上石神井
上野の東京美術学校の校舎の一部を間借し戦後を迎えます。
1946年6月板橋区上石神井の智山中学校と元電波兵器技術専修学校の木造校舎を借用し
移転しました。

東京外国語大学(1949-)

北区西ヶ原
1949年、戦災で全焼した校舎跡地に戦災復旧校舎が建設され、
西ヶ原キャンパスの時代が始まりました。1950年代にはコンクリート校舎も建設され、
増改築が進められます。

府中市朝日町
1985年、度重なる増改築により西ヶ原キャンパスが手狭になったことを受け、
府中への移転交渉が開始されました。そして2000年8月、府中キャンパスへの移転が
実現しました。


附属日本語学校


府中市住吉町
1970年、留学生教育の中核を担うため、外国語学部附属日本語学校が設置され、
翌年には府中市住吉町に移転しました。後に留学生教育教材開発センターが併設され、
1992年にはこれを統合し、留学生日本語教育センターが設置されました。

日新寮


中野区上高田
1924年(大正13)5月1日、豊多摩郡野方村大字上高田新井前114番地
(現、中野区上高田2丁目)に、関東大震災の被災者収容を目的に日新寮は設置されました。



                                            

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