和田忠彦
東京外国語大といえば、錚々たる外国文学者の名がすぐに浮かぶ。翻訳者たちが顔を揃えている。そんな時代が長くつづいた。そのなかに岩崎力が、安東次男、志村正夫、原卓也、河島英昭、そして迂生が赴任したころには、奴田原睦明、牛島信明、沓掛良彦、西永良成、荒このみ、谷川道子、亀山郁夫、関口時正…といった面々が、この総合文化研究所に集っていた。
だが翻訳を介してもたらされる華やかさが潰えつつあるという危惧は残念ながら徐々に現実となりつつある。それを無難に、大学をめぐる内的外的事情が輻輳した結果とみることも可能だろうし、あるいはもっと深刻に、外国文学研究のありかた自体が翻訳を駆逐する方向へと滑走をつづけている現在進行中の事態の反映であるとみることも可能だろう。そのいずれであるにせよ、総合文化研究所を支える所員たちの主要な活動のひとつであるはずの翻訳の成果が、少なくとも量的に著しく減退している事実は否定できない。
他方、昨今いわゆる「世界文学」をめぐる議論のなかで、19世紀にゲーテが唱えた意味とは異なる文脈のもと、「翻訳」はまた新たな意義を獲得しつつある。いわばふたつの相容れない現象が並行して総合文化研究所を取り巻く日常のなかで繰りひろげられているということだ。
だとすれば翻訳の実践と研究をめぐる考察をすぐれて今日的課題としてとらえ、あらためて総合文化研究所の活動の中心に据えなおしてみるのは、けっして意味のないことではないだろう。
そうした考えのもと、2015年12月6日には、日曜日の午後いっぱいを充てて、同年春に逝去されたひとりのフランス文学者の遺した仕事について考える公開の場を設けた——「岩崎力の仕事――終わりなき言葉、終わりなき生(Le travail de Tsutomu IWASAKI―Les mots ininterrompus, la vie sans fin)」(この試みがなにをもたらしたかについては、『ふらんす』(白水社,2016年2月号)所載の特集「翻訳者の仕事」に詳しい)。
2016年度もこの課題に向き合いながら、研究所の営みをつづけてみようと考えている。
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