狩猟採集民
他者、そして過去表象としての狩猟採集社会
大航海時代以降、ヨーロッパ世界は新に「発見」された非ヨーロッパ世界の人々やその社会を、自己を規定するための
認識対象として設定してきた。大航海時代以降の非ヨーロッパ世界は、ヨーロッパの自己認識のための「写し鏡」として「発明」された、一方的にまなざしを受ける「他者」としての位置づけを与えられていくこととなった。非ヨーロッパ世界における狩猟採集社会もその例外ではない。「他者」としての非ヨーロッパ世界の位置づけは、その後両者の「優劣」の差異として認識され、さらにその差異は時間における先後関係に布置されることとなる。他者認識におけるこのような枠組みは、近代の諸制度・システムが現在機能しているかたちに整備される時代、とくに19世紀以降に顕著である(Trigger 1988)。
大航海時代以前においても、ヨーロッパはすでに十字軍の遠征など、イスラム世界との関係において自己認識を共有しながら精緻化し、他者をまなざす主体としての位置を確立していた。しかし大航海時代を契機として、新大陸やアフリカ、アジアなど、イスラム世界以外の他者という認識対象がヨーロッパにもたらされることとなった。大航海時代の幕開けの時期においては、イスラム世界はヨーロッパよりも「進んだ」世界であった。しかしヨーロッパ世界は自己よりもさらに「遅れた」社会を新大陸やアフリカ、アジアなどに見出すことによって自らの先進性を確認していく。こうした大航海時代以降のヨーロッパの他者・自己認識の枠組みは、やがて武力によるイスラム世界の撃退によってさらに強化されることになる(加藤1993)。
ヨーロッパが獲得した、先進性による他者・自己認識のかたちは、やがて19世紀に植民地主義の時代が到来し、ルイス・モーガン(『古代社会』1877)やフリードリッヒ・エンゲルス(『家族,私有財産および国家の起源』1884)による社会進化論に立脚した「科学的客観性」によっていっそう強化される。すなわち非ヨーロッパ世界は「分類」の対象としてヨーロッパの「知」の認識枠組みに組み込まれ、「支配」の対象へと変貌していくこととなる。植民地支配の時代以前には、狩猟採集や農耕という生業の別、あるいはバンドや部族社会、また王国という社会的統合の度合いに対して「科学的」な関心が向けられることなく、非ヨーロッパ世界は一様に、裸身で、偶像を崇拝し、首狩りや食人の風習をもつ「野蛮人」の社会としてのイメージが増幅されることとなった。これら2つの世界は、野蛮に対する理性、「未開」に対する「文明」という二項対立の図式によって規定されていた(岩尾2000)。
しかしながら、他者としての非ヨーロッパ世界は、つねにヨーロッパ世界の否定的なまなざしに曝されてきたわけではない。トマス・モアの『ユートピア』やジャン=ジャック・ルソーの「高貴なる野蛮人」イメージに描き出されているように、非ヨーロッパ世界の純粋・無垢で、自由で清純なイメージは、ときには自らがヨーロッパ世界に批判のまなざしを向ける認識枠としても定位されている。このように「未開」の非ヨーロッパ世界は、西欧世界にとっての「野蛮」と「高貴」という両義性の振幅のなかで対極的に認識されてきた(小川1999a)。そして狩猟採集社会をはじめとする非ヨーロッパ世界諸社会のイメージに付与された肯定的イメージは、啓蒙主義の時代において終焉を迎えたわけではなく、下で述べるようにのちの時代になっても、「文明」に対して批判を加える際の対応物として仮構され続けてきた。
その後、植民地主義の時代に入ると、非ヨーロッパ世界は「支配」の対象として知の体系に組み込まれ、「科学的客観性」の醒めたまなざしに曝されながら、詳細に調査され、微細に分類され、緻密で膨大な資料として体系的に蓄積されることになる。そして民族誌がフィールドワークをもとにして記述され、人類学者の「主観的」解釈を排した科学的、客観的な他者へのまなざしの所産が、知の領域から公的に承認されるようになる。他者記述の構築物である民族誌は、専門的に「正しく」訓練された者の専有物となり、もはや植民地行政官や宣教師、旅行者の記述には価値がおかれなくなる。
他者表象の「科学的」方法が民族学において確立される頃にはすでに、社会進化論に立脚したモーガンやエンゲルスなどによって、非ヨーロッパ世界の多様性な民族を時間の尺度のなかで体系化する作業が進められていた。そのなかで狩猟採集社会は、科学によって仮構された時間のもっとも「遅れた」時点に固定されつづけてきた。現在、われわれがいとも簡単に成し遂げてしまうような他者の了解のしかた、すなわち他者と自己との差異を時間的尺度に置き換え、自らの過去に布置する想像のしかたがこの時期に獲得されることとなる。博物館展示のガラスケースには狩猟採集社会が限られた時代にしか登場してこない。国民国家を単位としてひとびとの「固有の来歴」が語られる近代以降の博物館展示においては、狩猟採集社会は石器や骨格標本、当時の生活の想像図やジオラマとともに、考古展示の最初のガラスケース、すなわちその国の歴史の初源に展示されている。しかしそれ以降の時代に関しては展示ケースに登場することはまずない。東南アジアなど、国内に狩猟採集社会が現存する国々であっても、考古展示では農耕開始以降のその国の歴史には登場してこない。博物館での狩猟採集社会の展示は、技術的差異を優劣の差異に置き換え、それを近代になってわれわれが獲得した単線的な時間の流れに配置するという他者の解釈のしかたを明確に反映している(小川2000a)。
近代国民国家が成立して以降、イデオロギー装置としての役割を担った博物館において、考古展示で強調されるのは、国民文化の「純粋性」が歴史を遡って発見されるのとは逆に、むしろ、初源の「原始性」からいかにして今日の文明へとたどり着いたかという道程の方である。国民文化が他の国民文化との差異において希求する「純粋性」や「固有性」は、現在の狩猟採集社会の世界システムにおける周辺的位置にも過去の「原始性」にも帰着することはない。狩猟採集社会が国民の歴史の最初のガラスケースに登場する姿は、ただその国の来歴の古さを強調するためである。「はじまり」と「現在」以外の時間においては、「歴史」の存在を認められていない狩猟採集社会研究の現状は、ポスト植民地主義と国民国家の枠内における考古学研究の限界を示している。農耕社会に歴史の主役の座を譲って以降、「文明」への方向性をもたない狩猟採集社会の今日までの足跡は、国民国家の歴史から排除・隠蔽され、研究のための理論的枠組みすら構築されていない状況にある(小川1999a, b)。
考古学研究の場で取り上げられ、議論されてきた遺物は、考古学者によって「文明」の方向性をもつと解釈された遺物である。考古学では遺跡から出土した遺物全体の中からある特定の遺物のみが取り上げられ、再構成される。その際「文明」の方向性に沿った遺物の取り上げ方、技術の進歩の方向性に沿って選択された遺物のみが強調されているのが現状である。では逆に考古学者の取捨選択の網の目にかからなかった、たとえば農耕社会出現以降の狩猟採集社会の歴史過程における遺物の再構成の方法や理論的枠組みについては、これまでほとんど議論されることはない。たしかに発掘された遺物を時間の経過にそって並べてみた場合、遺物に反映される技術的変化は発展的な様相を示すのが一般的であるが、考古学者が遺物の技術的変化を発展の連鎖として提示するとき、「文明」へとねらいを定めてばく進する時間の弾道の軌跡に技術体系や社会を位置づけようとする意図を見出すことができる(小川1999a, 2000a)。
狩猟採集社会の両義的他者イメージとカラハリ論争
すでに上で述べたように狩猟採集社会は、西欧世界によって他者として表象される際に、「野蛮」と「高貴」という両義性の振幅のなかで対極的に認識されてきた。その後、民族学(文化人類学)がフィールドワークをベースとする科学として確立され、考古学が文字以前の国民国家の来歴を現在へと結びつける役割を担う時代以降も、この他者の認識枠組みに
に変化はない。この点についてフィリピン考古学における近年の研究事例をみてみよう。
フィリピン、ルソン島北東部のパラナン(Palanan)で狩猟採集民アグタ(Agta)の民族・考古学の調査を行っていたウォーレンとジェーン・ピーターソン夫妻は、今日アグタと農耕民との間にみられる食料、労働力、土地の交換による相互依存関係をもとにして、狩猟採集社会が先史時代から現在まで存続してきた歴史過程を説明する「交換適応」モデルを提示した(Peterson and Peterson 1977, 小川1996, 2000a)。このモデルは狩猟採集社会と農耕社会が、それぞれの技術によって、競争(competition)を避けながら異なった自然環境(低地と山地)を利用し、互いに不足する資源を交換によって補い合うという生業戦略で、結果的に2つの社会が適応、存続していくというものである。交換を媒介として互いに労働投下量を低く抑え、技術革新を推し進めることなく、生産の絶えざる集約化から免れ、低い技術レベルで人口を環境収容量(carrying capacity)内に維持することが可能となる。このような相互依存の適応戦略によって、狩猟採集社会と農耕社会はひとつの共存のシステムをつくりあげてきたため、結果的に狩猟採集社会が現在まで存続したとピーターソン夫妻は説明する。交換適応モデルは、ボズラップが提示した、農耕と定住の結果増加した人口を支えるため、絶えざる技術革新と労働の集約化を必要とする、農耕社会の発展モデル(ボズラップ1967)とは際立った違いをみせている。農耕を開始した人類はその後「文明」を築き上げることになるが、生産の集約化という絶えず「膨張」するシステムを維持し続けなくてはならなかった。いっぽう交換適応モデルでは、狩猟採集社会と農耕社会がひとつのシステムとして「膨張」を抑えた、経済的・社会的均衡(equilibrium)状態を獲得することが可能となる。
しかしこのモデルの問題点は、狩猟採集社会を安定的で、静態的な、変化のない社会に封じ込めようとしている点である。交換を媒介とする相互依存関係が農耕社会との間で実践されるため、それまで東南アジアの狩猟採集社会の存続の説明としてハイネ・ゲルデルンによって提示されていた「隔離モデル」とは異なり、狩猟採集社会と外部との機能的関係を説明しているようにみえるが、実際は狩猟採集社会と農耕社会をともにひとつの閉鎖系のなかに封じ込めている。「交換適応モデル」は、プロセス考古学の新たな研究の枠組みによって、隔離モデルを乗り越えるという目的をもっていたが、それにもかかわらず相互依存関係で結ばれた、技術的背景の異なるふたつの社会を、ひとつの安定した、長期間にわたって均衡状態を保つシステムとして提示したため、そのシステム外部との影響関係を論じていないという点では、かたちを変えた「停滞論」すなわち「時空間の均質性」の提示となってしまった。隔離モデルの停滞論を打破しようとして構築された交換適応モデルが提示したものは、結局かたちを変えた隔離モデルとなってしまった。
その理由を考えるために70年代の狩猟採集社会研究の潮流を振り返ってみよう。Man the Hunter (Lee and De Vore 1968)でリチャード・リーらによって提示されたブッシュマン社会のモデルは世界中の考古学者に多大な影響を与えた。その結果、このモデルが生み出した、狩猟採集社会が低い労働投下量で高い生活水準を享受し、自然環境の諸条件に密接に適応するかたちで柔軟に構成された平等主義的共同体であるというイメージは、考古学者に好意的に受け入れられ、世界各地の先史狩猟採集社会研究に導入された。リー自身は現在の狩猟採集社会を「石器時代の生き残り」とすることは慎重に避けているが、それでも過去から現在まで変化のない社会とみなす時間の観念(timeless sense)で狩猟採集社会をとらえていたという指摘もある(Shott 1992:845)。またこの時期からはじまる民族考古学(ethnoarchaeology)によって生み出されたモデルもカラハリモデルの影響を強く受けており、交換適応モデルもその一例と考えることができる。
さらに時代的風潮としてこの時代の人びとに影響力をもっていたのは、ベトナム戦争以降、輝かしいはずの「文明」へ投げかけられた大いなる疑問や幻滅である。それによって多くの考古学者が「非文明世界」における自然と人間との調和や均衡的関係にユートピア像を想い描く原因となり、「高貴なる野蛮人」イメージを狩猟採集社会に重ね合わせることになったものと考えられる。
西欧世界が「文明」社会に幻滅や疑問を感じるようになっても、狩猟採集社会は依然として自己(西欧=文明)と対峙する「野蛮な他者」の世界として表象されつづけてきた。西欧世界が自己認識の投影物として、狩猟採集社会のイメージを野蛮とユートピアの間に往還させても、それは西欧という主体のなかで繰り広げられる対象の一人歩きの虚しい運動であった。プロセス考古学によって新たな理論的枠組みと方法が導入されても、東南アジアにおける狩猟採集社会と農耕社会が同時に存在し、相互関係を保持してきた可能性のある数千年間の歴史は隠蔽されたままであった。狩猟採集社会の「隔離性」や「均質な時空間」の虚構性に対する議論が活発になるには−例えばカラハリ論争のように−、これまで科学的客観主義によって研究対象とされてきた狩猟採集社会自体から、一方的な表象のあり方に対する異議申し立てが盛んとなり、それに対して研究者が反応するようになる時期までまたなければならなかった。
ここでカラハリ論争の概要を説明しよう。リーらによって構築されたカラハリモデルを批判する修正主義者によれば、かつてのブッシュマンはアフリカ東海岸の交易集団との交流をもち、インド洋交易の末端で原材料の調達に携わっていたが、大航海時代以降このネットワークが断ち切られてから、徐々にカラハリモデルで展開されているような「自立的」生活をおくるようになったとされている。けっして先史時代からずっと他集団との交流をもたずに生活していたわけではないとウイルムセンらは主張している(Wilmsen and Denbow 1990:499-503)。カラハリモデルで展開されるブッシュマンの生活は、リーらが行った調査時にのみに適合する一事例であって、それ以前のブッシュマン社会は外的世界との接触によってさまざまな影響を受けながら生活してきたのであって、けっして旧石器時代から隔離されてきたのではないとしてカラハリモデルの修正を迫るものであった。狩猟採集社会の「純粋」な「伝統性」の保持か,喪失かをめぐる激しい議論の応酬が展開する(Wilmsen 1989, Solway and Lee 1990, Wilmsen and Denbow 1990, Silberbauer 1991, Lee 1992, Kent 1992, 池谷1996)。論争の決着は過去に近隣の世界と交流をもっていたことを示す遺跡と現在の狩猟採集社会との間になんらかの関係を検証することに求められ、伝統主義者と修正主義者双方から考古学へ強い期待がかけられることとなった。
伝統主義者が行ってきたように、より「自立的」「伝統的」で、外界から「隔離」された「純粋な」狩猟採集社会をさがし求め、それをモデルとして過去を再構築しようとする姿勢の背後には,狩猟採集社会の周囲に存在する社会との「交流」を、「伝統」や「純粋性」の「汚染」とみなす視角が潜んでいる。目の前の狩猟採集社会から「伝統項目」だけを恣意的に抽出し、外部世界からの「汚染」を排除して先史時代にあてはめるためのモデル構築の材料にするとしたら、それは世界システムのなかで周辺化されている狩猟採集社会を現実から切り離す一方的な態度にすぎないであろう。これは近代の影響による「汚染」を狩猟採集社会から防ぐために、「民族誌的現在」という静止した時間に閉じ込めて観察、記述する方法を用い、他者表象をつづけてきたわれわれの問題として提示されなくてはならない(清水1992)。
文化(社会)人類学では現在、民族の文化には本質があってこの本質を表象したものが文化であるという考え方、すなわち文化に対する本質主義(エッセンシャリズム)への反省がうながされている(サイード1993、清水1992、クリフォード、マーカス1996、ロサルド 1998)。これまで調査や研究の「対象」として、また「静的」なものとして、研究者の側から一方的なまなざしを受けてきた「民族」は、国家のなかで「国民」やあるいは新たなかたちの集団(エスニック・グループ)へとダイナミックに再編成されつつあるのが現状である。
カラハリモデルはあまりにも多くの狩猟採集社会を研究する人類学者や考古学者の心をとらえてきたために、論争の衝撃は大きかった。それはカラハリモデルが現在ではすでに、これら周辺民族の現状を記述し、説明するには十分ではなくなったということをも意味している。修正主義者の問題提起は、モデルが依拠しているような「伝統的」で、外界から「隔離」された、「自立的」な狩猟採集社会自体が現在世界に存在しているのかという疑問から発している。われわれが受け取るべき論争のエッセンスは、研究者が研究対象である社会や文化に対して投げかける他者へのまなざしの問題、われわれの自己認識の枠組みを獲得するために他者を発明してきたという大きな問題にまで踏み込むことになった。しかし論争の決着には細かいデータの積み重ねが必要である。論争は歴史的に決着をつけなければならないことが当事者双方で確認され、その手段である考古学への期待とそれを担う責任は大きい。
文献目録
ボズラップ, E.
1967 [1975] 『農業成長の諸条件』安沢秀一, 安沢みね子訳 ミネルバ書房 (The Conditions of Agricultural Growth. Chicago: Aldine.)
岩尾龍太郎
2000 『ロビンソン変形譚小史』みすず書房
加藤 剛
1993 「民族誌と地域研究−他者へのまなざし」、矢野暢編『地域研究の手法』: 97-137, 弘文堂
池谷和信
1996 「「伝統主義者」と「修正主義者」とのあいだの論争をめぐってーカラハリ・サン研究の事例-」『民博通信』No.73:64-77
Kent, S.
1992 The Current Forager Controversy: Real Versus Ideal Views of Hunter-Gatherers. Man 27:45-70.
クリフォード、ジェイムス ジョージ・マーカス(編)
1996 『文化を書く』春日・足羽・橋本・多和田・西川・和爾訳、紀ノ国屋書店
Lee, R. B. and I. De Vore (eds.)
1968 Man the Hunter. Aldine: Chicago.
小川英文
1999a 「考古学者が提示する狩猟採集社会イメージ」『民族学研究』63-2:192-202.
1999b 「東南アジア 発掘の歴史と考古学」、吉村作治編『東南アジアの華 アンコール・ボロブドゥール』: 75-89、平凡社
2000a 「狩猟採集民と農耕民の交流−相互関係の視角−」、小川英文編『交流の考古学』、岩崎卓也監修『シリーズ 現代の考古学』第5巻、朝倉書店
2000b 「総論 交流考古学の可能性」、小川英文編『交流の考古学』、岩崎卓也監修『シリーズ 現代の考古学』第5巻、朝倉書店
ロサルド、レナート
1998 『文化と真実 社会分析の再構築』椎名美智訳 日本エディタースクール出版部
サイード、エドワード
1993 板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳『オリエンタリズム』上・下、平凡社ライブラリー
Shott, M. J.
1992 On recent trends in the anthropology of foragers: Kalahari Revisionism and its Archaeological Implications. Man 27(4): 843-872.
Silberbauer, G. B.
1991 Morbit Reflexivity and Overgeneralization in Mosarwa Studies: Reveiw of E. N. Wilmsen 1989. Current Anthropology 32: 96-99.
清水昭俊
1992 「永遠の未開文化と周辺民族-近代西欧人類学史点描-」『国立民族学博物館研究報告』17-3: 417-488.
Solway, J. S and R. B. Lee
1990 Foragers, Genuine or Spurious?: Situating the Kalahari San in History. Current Anthropology 31: 109-146.
Trigger, B.
1988 A History of Archaeological Thought. Cambridge: Cambridge University Press
Wilmsen, E. N.
1989 Land Filled with Flies: A Political Economy of the Kalahari. Chicago: The University of Chicago Press.
Wilmsen, E. N. and J. Denbow
1990 Paradigmatic history of San-speaking peoples and current attempts at revision. Current Anthroplogy 31 : 489-524.