文明

今日われわれは、日常的な生活のなかで接している「文明」という概念が、すでに「古代」から存在してきたかのように受け入れている。しかし今日用いられている文明の概念が歴史に登場するのは意外と新しく、近代の登場以降のことである。以下では、「文明」という概念が近代のはじまりとともにどのようなコンテクストで登場し、その後の歴史のなかでどのような変遷をたどって現在に到ってきたかについて、同じく近代に登場した考古学との関係のなかで考えていく。

1.文明概念の登場

 文明という概念は、近代国民国家における国民統合のためのイデオロギーとしての役割を担わされた用語、概念である。文明という用語と概念が登場するのは、18世紀後半、啓蒙主義の思想家の書物においてである。文明(civilisation)という語の初出は、フランスの重農主義者ミラボー(V. R., m. de Mirabeau)の『人間の友、あるいは人口論』(1757)とされている。 それ以前の過去3世紀にわたって、文明の形容詞civil (市民の、礼儀正しい)、動詞civliser (開花する、教化する)や過去分詞(civilise)が広く用いられていたため、その名詞形civilisation (文明)が作り出されるのに抵抗はなかったとしても、「人間性」や「自由」と並ぶ重要な概念とあらわす用語の創出は、語史ばかりでなく、思想史においても一大事件である。西川長夫はミラボーなどの啓蒙主義者の「文明」の用法を検討するなかで、文明概念の基本要素のほとんどすべてがすでに出揃っていることを指摘し、それらの要素を以下のように提示している(西川1995: 50-52)。第一に文明という語が「美徳」や「よき習俗」の完成という道徳的な主張と結びついて現れる点である。この点は今日のわれわれの文明観(「物質文明))と少しかけ離れていることが注目される。第二に、文明という語が啓蒙主義、あるいは進歩主義の文脈のなかで用いられている点である。そこでは文明は人間性の進歩の過程であると同時に到達目標である。すなわち文明という語は進歩史観というひとつの歴史観に結びつくというより、すでにひとつの史観の表明である。第三に、文明という語が現れるコンテクストでは、その論述の目的が国家や国民にあるという点である。すなわち当時の啓蒙主義者や経済論者にとって、文明を論じるということは、あるべき国家と国民について論じることであった。ただここで議論された国家と国民は絶対王政下のものであって、フランス革命以降の国家・国民とは内容が異なる。しかし市民革命の前夜、理想とすべき社会についての議論が、暗に絶対王政を批判しながら積み重ねられることによって、新しい国家・国民像が膨らんで行った。

現在われわれは「文明」を、「物質文明」で表現されるように科学技術の進歩とそれを享受する都市生活というかたちで受け止めている。しかし名詞化された「文明(civilisation)」という語が誕生した時点では、絶対王政下の廃頽した宮廷社会に取って代わる、倫理観をもつ洗練された市民によって構成される新しい社会を築こうとする政治改革の理念であった。

考古学も実は「文明」概念の出現とともに誕生している。その由来は、当時絶対主義の宮廷で繰り広げられていた美術・建築様式であるロココの華麗な装飾趣味と官能的快楽主義に反発する新古典主義に求めることができる。新古典主義が追い求める美意識の規範は、高貴な単純さや静謐な崇高さの美学であり、当時盛んに行われたギリシャ・ローマの遺跡発掘自体が「古代」の美学に対する憧憬から引き起こされたものであった。美術史の世界で「グリーク・リバイバル」と呼ばれる古代ギリシャの「再発見」は、スチュアート( J.Stuart) とレベット( N. Revett)による『アテネの古代遺物』の出版(1757年以降)を契機としていた。さらにギリシャ芸術を最高の理想美に位置づけるウィンケルマン(J. J. Winckelmann)の古代ローマ遺跡の発掘によって、本格的に考古学的方法が実践されるようになる。考古学の基礎を築いたとして学史に名をとどめるウィンケルマンは、ローマやナポリの遺跡発掘を続けるなかで『ギリシャ美術模倣論』(1755)『古代美術史』(1764)を著し、新古典主義に精神的基盤を与えると同時に、広く当時の精神界・思想界に影響を及ぼした。

文明概念と考古学の登場には、啓蒙主義と新古典主義という、分野は異なるが同じく思想界・精神界における改革の場を共有していたことが理解できる。「文明」と考古学は、政治と精神の改革運動の過程でともに誕生した、新たな時代の到来を希求する理念と実践であった。文明という語の成立にかかわる一連のフランス語の語源がラテン語のcivis (市民) civitas (都市国家)に由来していることは、都市を中心とする洗練された市民によって構成された社会(=のちの「国民国家」)の意味とイメージが考古学的方法による「古代の再発見」を契機として復活することと規を一にしている点で興味深い。

近代におけるフランスとドイツの国際関係を軸とする緊張関係において、しばしば「文明」の対抗概念として意識されてきたものに「文化」概念がある。エリアスによれば、ドイツ人が文化を選ぶにあたっては、はじめからフランス(文明)に対する対抗意識があったとしている(エリアス1977: 80-87)。ドイツにおける文化概念も啓蒙主義の時代にフランスにおける「文明」と同じような概念として生み出されているが、啓蒙主義者にとって共通の批判対象であるべき絶対王政も、ドイツの宮廷ではフランス語が話されており、「文明」概念が支配的であった。ドイツの知識人や上層ブルジョワジーはそれに対抗するかたちで、自己の独自の価値を主張するために「文化」の語を選択したのであった。われわれも「物質文明」に対する「精神文化」という対立概念で「文明」と「文化」をとらえようとする傾向をもっている。このことは、明治維新以降の日本にける近代国家建設の過程における西欧先進文化輸入の際に、ドイツの国家イデオロギー(ナショナリズム)が意識的に選択されたことと無縁ではないだろう。「文明」と「文化」はそれらの概念が誕生したときには民族主義的な主張をあらわにはしておらず、むしろ世界市民主義的であった。しかしその後フランス革命などの市民革命を経て、国境が明確に定められ、国民統合が推進されるなかで、「文明」と「文化」の概念は、国家と国民の存在理由を表明する近代国民国家のイデオロギーとして新たな意味の修正を迎えることになる。同時に考古学も国民国家の時代に移行して、その社会的機能性が変貌したことを予測できる。国民国家における考古学は、国民の純粋性や固有性の歴史的根拠を強固にする学問的手段として、国民意識(=ナショナル・アイデンティティ)の形成に寄与することとなる。

文明と文化の概念誕生以後におけるそれらの意味の対立関係は、ヨーロッパを中心とする世界における国民国家間の対立を反映している。ナポレオンのフランス軍に占領され打ちひしがれたドイツ国民に向けたフィヒテの演説、反革命の時代に国民国家を文明の名のもとに位置づけたギゾーの「文明史」、国民国家間の戦争という性格を明確にした普仏戦争におけるドイツの「文化の勝利」とフランスの「文明の危機」、「国民とは何か?」を問うことによって国民、さらには文明の再定義を行ったルナンの講演、第一次大戦によってもたらされた文明への懐疑、そして文明と文化の闘争というかたちをとることになった第二次大戦。大戦後、ドイツのナチズムや日本の国粋主義にみられる文化概念の極限的変形は、戦勝国側によって。文明の名のもとに裁かれることになる。さらには現在の民族紛争にみられるように、文明と文化の対立は国家が存在する限り、理念と現実のかたちを変えて現れてくるであろう。

2.植民地主義の時代における「文明」概念

 文明概念と考古学の関係をさぐる2つめの手がかりを、フランスの植民地主義の時代、とくにアンコール遺跡群の研究に求めてみたい。

フランスがカンボジアを植民地としていた時代において、アンコール遺跡群のみならずインドシナ全域の考古学調査の中心的役割を果たしていたのがフランス極東学院であったことはよく知られている。アンコール遺跡群が西欧世界に知られるようになるのは、1860年アンリ・ムーオの報告が世に出てからである。西欧世界はアンコール遺跡群の規模の壮大さと芸術性の高さに驚嘆し、この世紀の大発見に心を奪われた。1907年、フランス・シャム条約によってアンコール遺跡群がタイ領から仏領インドシナに組み込まれると、フランス極東学院による本格的な調査・修復が開始されることになる。フランス極東学院は仏領インドシナなどの植民地をはじめとする東アジアの歴史・文化・民族の総合研究機関として1900年ハノイに設置された研究所である。アンコール遺跡群での研究活動は遺跡の調査・保存・修復の過程で、碑文や美術様式の研究を行いながら、遺跡全体を史跡公園として管理・整備するというかたちで進められた。その成果として、碑文の発見やその解読が進展することによって、各遺跡の建造年代とそれを建造した王の在位年代が徐々に明らかになっていった。碑文が残されていない遺跡についても、美術様式の変化に基づく相対編年が組まれることによって、徐々に時代ごとの変遷が明らかとなっていった。

このようにフランス極東学院の研究者によって少しづつ積み重ねられていった膨大な数にのぼる研究成果は、『フランス極東学院紀要(BEFEO)』に発表され、古代カンボジアの歴史・考古・美術・宗教などに関する細密な知見が、新たに構築されるようになった。このような研究に寄与したフランス極東学院の研究者の名を挙げるとすると、まず碑文研究により、古代タイ・カンボジアの歴史再構築に多大な貢献を成したセデス(G. Coedes)があげられる。セデスは長く極東学院院長を務め、さらにスマトラ、マレー半島にかつてスリウィジャヤ王国が存在したことを明らかにするなど、東南アジア史研究に多大な功績を残した。また、敦煌文書の研究で有名なぺリオ(P. Pelliot)は、中国文献の研究の側からアンコール碑文資料の欠落を補っていった。この他にもパルマンチエやグロリエなど多くの優秀な研究者が極東学院を本拠として成果を発表していった。こうした極東学院を中心とする、組織的で緻密・詳細な調査・研究と膨大な資料の蓄積によって、アンコール遺跡群をはじめとする古代カンボジア史の再構築が可能となり、現在わたしたちはアンコールの歴史や美術様式と遺跡の変遷についての年表を手にすることができるのである。

 アンコールの崇高さや壮大さに対して大いなる驚きや疑問を発した西欧人の欲求は、われわれがじかにアンコール遺跡群を訪れて遠い過去に想いを馳せてみたいという欲求をはるかにしのぐものであった。西欧宗主国はひとつの巨大な知のシステムである『東洋学』を組織し、植民地の歴史・言語・文学・建築についての細密で膨大な研究成果を積み重ね、植民地の過去を自らの知の領域のなかに対象化することによって、「古代文明」への驚きと疑問を解消していったのである。こうして植民地の過去を掘り下げ、歴史の新たな「発見」に興味が注がれ、東南アジアの「古代世界」を再構成するに足る膨大で、緻密な知識が蓄積されていった反面、研究者がそこで生きる植民地の、現在の社会や文化が生成するダイナミズムにはアカデミックな関心は払われなかった。西欧宗主国のアカデミズムの関心は、社会的、文化的、そして経済的に「停滞した」植民地の現状ではなく、宗主国がその当時に達成しえた「輝かしい文明」と同等の価値を与えるに足る、植民地の「古代文明」にあった。

 ここで疑問なのは、宗主国フランスが19世紀に国民国家を形成していく過程で理想として構築した「文明」という概念が、なぜ植民地の「古代」という特定の時期にのみ適用されるのかという点についてである。フランスにとって「文明」概念は、自由や平等と同様に、国民国家の崇高な理念として規定されてきた。しかしフランスに限らず西欧宗主国は一般に、一方で植民地の現実に対しては「停滞」や「未開」という負の価値を与え続けたにもかかわらず、他方では植民地の過去には自らが誇る理想としての「文明」という価値を付与してきた。このパラドックスの理由はいったいどこに求めることができるであろうか。そこには宗主国が知の領域において植民地の過去を現在と切り離して自らのものとする意志を感じることができる。その知の行為は、西欧宗主国がかつて、自国の領域からは遠く離れたギリシャ・ローマの古代遺跡を発掘し、自らの「輝ける過去」として発見して、その歴史を自分たちの「現在」に結びつけた時と同質の行為として論じられなければならない。このように遠く離れた場所の、あるいは植民地の、「他者」の過去を、横滑りさせながら自らのもにしていく知的行為は、19世紀に創出された「国民」の新たな来歴を構築していくという「発明」的行為として位置づけられる。また同時に、植民地が保有する過去の遺産の「真の価値」を見出し、植民地の現状としての「貧困」や「無知」を克服して、「文明化」への道を達成するという、帝国主義的支配の正当化のレトリックとして理解することも可能である。そしてこのように宗主国と植民地で繰り広げられた、過去からの来歴、あるいは「伝統」をめぐる知の方法として考古学が構築されていったのである。しかしいったん「来歴」や「伝統」が知のシステムのなかに組み込まれると、いつしかそれらは遠古から実体として存在してきたかのように振る舞い、たかだか百年余前の19世紀に「発明」されたという経緯は、わたしたちの記憶の彼方に埋没してしまったのである。

 植民地主義の時代における「文明」概念は、明確に国家イデオロギーとしての性格を帯びている。そして国家イデオロギーが植民地に与える差別や抑圧は、「文明化」の名のもとに巧妙に隠蔽されてきたのである。「文明化」の名のもとに行われた抑圧とその隠蔽に考古学も深く関与してきたが、それはすでに遠い過去のこととして忘れ去られる性質のものではない。現在の民族紛争などの極限状況から、日本が今日抱える失業や経済不況といった日常生活において経験可能な社会問題に至るまで、国際関係あるいは民族間の紛争の火種は絶えることがなく、国家という枠組みのなかで社会が機能しつづける限り、文明や文化の概念に依拠しながら行われる抑圧とその隠蔽はこれからいつでも頭をもたげてくることに注意しておく必要がある。

 

文献目録

石沢良昭

1996       『アンコール・ワット』講談社現代新書

石沢良昭・生田滋

      1998    『東南アジアの伝統と発展』中央公論社

エリアス、ノルベルト

      1977  『文明化の過程・上』法政大学出版局

加藤剛

1993     「民族誌と地域研究−「他者」のまなざし」矢野暢編『地域研究の手法』:97-140、弘文堂

ダジャンス、ブリュノ(石沢良昭監修)

1995       『アンコール・ワット−密林に消えた文明を求めて』創元社

西川長夫

1995     『地球時代の民族=文化理論』新曜社

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