吉村作治の文明探検Vol. 5『東南アジアの華 アンコール・ボロブドゥール』所収(近刊)、平凡社「東南アジア 発掘の歴史と考古学 ― 「古代」への「あこがれ」がとり結ぶイデオロギーの磁場」

小川英文

目次

はじめに:「フィリピンに遺跡があるのか」という問い

I.         植民地時代以前の考古学:アン・チャン1世による復興事業

II.       植民地時代東南アジアの考古学:なぜ「文明」の資格を与えたのか?

III.     国民文化としての東南アジア考古学

おわりに

 

はじめに −「フィリピンに遺跡があるのか?!」

 わたしが調査しているフィリピンの考古学の話を日本ですると、「フィリピンに遺跡があるのか」という問いかけがしばしば帰ってくる。この場合聞き手は、東南アジアの「遺跡」をアンコール・ワットやボロブドゥールといった、著名な、世界遺産に登録されるような「石造建築」遺跡をイメージしているにちがいない。フィリピンで世界遺産に登録されているのは、ルソン島山岳地帯に生活するイフガオ族によって築かれたライステラス(棚田)、海底のサンゴ礁などで、考古学がとりあつかう「遺跡」とはなじみの浅いものばかりである。同じように日本の世界遺産にも原爆ドーム、姫路城、屋久島など、考古学との親和性の低い遺産物件が多くみられる。日本でもフィリピンでも、考古学となじみの深い「遺跡」は、石造建築遺跡ではなく、縄文、弥生時代の住居・貝塚・墓地遺跡などである。にもかかわらず日本人が「外国の遺跡」としてイメージするのは、いまでは崩れ落ち、訪れる人もない、鬱蒼とした密林や砂漠のなかに取り残されている石造遺構の姿である。そしてこの遺跡のイメージによって、わたしたちは「古代文明」の神秘と謎にひと時浸り、過去への想像力を膨らませているのである。いっぽう地上に石造遺構が残っていない日本の縄文や弥生時代の集落址では、例えば三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡などのように、物見櫓や萱葺きの住居群などが予想復元され、実体化されなければ、過去へ想いを馳せるきっかけがなかなかつかめないのである。筆者がこれまで調査してきたフィリピンの遺跡(貝塚や洞穴)も、日本の縄文や弥生時代の遺跡同様、石材で構築された上部構造をもっていない遺跡である。フィリピンの遺跡は日本人がイメージする「外国の遺跡=石造遺構」から大きく逸脱し、「フィリピンに遺跡があるのか」という疑問が提示されるのである。

 誤解のないように述べておくが、ここでわたしは世界遺産に登録されるような石造建築こそが考古学的に価値があり、それに比べて日本やフィリピンの遺跡は劣っているのだということを主張したいのではない。本稿の主題は、なぜわたしたち日本人はアンコール・ワットなどの石造建築遺跡をとうして、「古代文明」の謎や王朝の興亡に憧憬をいだき、想像力を膨らませ、ひと時過去へ自らを回帰させようとするのか、という問題を東南アジアの発掘や考古学の歴史をたどりながら考えてみようというものである。このようなわたしたちの過去へのあこがれや古代文明の謎を追い求めるのと同じかたちで、実は東南アジアの考古学研究自体が投企され、過去の「掘り起こし」が文字どおり始まったのである。読者にはわたしがなぜこのような当たり前の問題設定をするのかと疑問に思うかもしれない。過去の人々の生活や営為の痕跡が忘れられた状態で現前することに謎を抱き、それを追求することから学問が始まるというのは当然のことである。しかしわたしたちの日常生活のちょっとした間隙で投げかけられる過去への遠い想いは、エキゾチシズム(あるいはオリエンタリズム)という一定の政治的枠組み抜きには成立しないし、またそれによって遺跡を資本とする観光産業も成立しているというのが現実である。さらに、わたしたちの過去への想いを実体化する考古学自体が、近代以前には成立していなかったということとも切り離して考えることはできない。このような問題を検討する材料として、以下では東南アジア考古学史を植民地時代以前と以降、そして独立後の3つの時期に分け、各時代の「過去へのあこがれ」をめぐる発掘物語をとりあげる。

 

.植民地時代以前の「考古学」:アン・チャン1世によるアンコール・ワットの復興

 現在、日本で最初の学術的考古学調査に位置づけられている黄門さま(徳川光圀)の発掘は、格さん(安積澹泊、講釈では渥美格之丞で登場)を発掘主任に据えて、元禄5(1692)に那須の古墳(上侍塚、下侍塚)で始まった。中国の正史と同じ紀伝体の体裁をとり、本紀と列伝で編集された漢文の日本史である『大日本史』に着手していた黄門さまは、大友皇子の即位を認め、また南朝を正統として本紀に列するなど、皇統に独自の解釈を展開した。その史料の収集には格さん、助さん(佐々十竹、講釈では佐々木助三郎)を京都や奈良などに派遣していた。天皇の正統な系譜に関心をもつ黄門さまが、京都・奈良に分布し、天皇家の墳墓として伝えられる古墳群について、実際に見聞してきたであろう格さん、助さんから話を聞き、水戸藩領内の古墳を自ら発掘して、被葬者が誰であるかを知りたいと思うのは自然のなりゆきであろう。

 黄門さまの発掘よりも150年ほど前、16世紀半ばのカンボジア王国では、荒れるにまかされていたアンコール・ワットの修復が、当時の王様によって開始された。王様の名前はアン・チャン1世といい、密林のなかに眠るアンコール遺跡群を探し当て、祖先の王たちが営々と築き上げてきたアンコールの都の跡を目の当たりにするのである。アンコールの都は15世紀前半にタイ人によって破壊されたが、これ以降のカンボジアの歴史は近代まで一般に年表から姿を消すため、あまりなじみがない。その後のカンボジア史と大陸部東南アジア情勢を概観しよう。

 12世紀末から13世紀初めにかけて、ジャヤバルバン7世の治下で最大版図を築き上げたアンコール朝クメール王国も、その後は衰退期に入る。14世紀後半からアンコール朝は、西隣するタイ人の新興国家アユタヤ朝(13511767)によってたびかさなる圧迫、侵略を受け、ついに1432年、アンコールの都を放棄して南へ退くこととなった。しかしアユタヤ朝はその後も侵略の手を休めず、1474年にはカンボジアを従属国化する。このような覇権をめぐる力と力のぶつかり合いは、それまでにもカンボジア内外で起きていた。王たちは力で相手をねじ伏せ、最終的に権力を掌握した者が、「王のなかの王」として東南アジア大陸部に君臨してきた。ジャヤバルバン7世までのアンコールの外敵は、東のチャンパ、西のモン族であった。これらの外患を平定し、国内で熾烈な王位継承の争いに勝ち残った者のみが、「王のなかの王」として神と一体化し、力による正義を四方に敷衍することが可能であった。内憂外患を取り除いたアンコールの王たちは、さらに国家安寧の祭儀を執り行い、世界の中心となるべき大寺院の建立と新たな都城の造営にはげみ、国家の栄光と王としての自らの実力を誇示した。こうして600年にわたり、アンコールの地を中心として、現在のタイ、ラオス、ベトナムにわたる広大な帝国を支配することが可能であった。

 しかし絶対にみえたアンコールの支配もジャヤバルマン7世が没して以降、翳りをみせる。13世紀後半から、アンコールの力の安定を打ち破る新興勢力が各地に現れ、東南アジア大陸部の勢力図を刷新することになった。これらの新興勢力とは西のビルマ、タイ、東のベトナムの諸民族で、北から徐々に南下し、まずタイのアユタヤ朝がアンコールを脅かすこととなる。かつてスールヤバルマン2世が、ベトナム、当時の李朝大越国と戦いを交えたが(12世紀後半)、当時はむしろチャンパ王国のほうがアンコール朝にとっての脅威であった。しかし黎()朝大越国が1471年にチャンパの都ヴィジャヤ(現在のベトナム、ビンディン省クイニョン郊外)を陥落させると、それ以降、ベトナム人は南下を始め、メコンデルタをめぐって対峙することになる。またビルマ人は南部のモン族が建てたペグー朝を滅ぼし(1531)、その後アユタヤ朝と長年にわたって戦いを繰り返すこととなる。この間、アンコールやチャンパが東南アジア大陸部に築いてきたヒンドゥー的世界は、上座仏教(ビルマ、タイ、カンボジア)や中国文化(ベトナム)の影響を受けた世界へと変わり、現在の東南アジア大陸部世界の原型が形成されていく。そしてこの東南アジア大陸部世界の大きな転換期と、アンコール朝の衰退期とが一致する。まさに歴史の主役の交替であった。  

 アンコール陥落の約100年後、1526年にアン・チャン1世が即位し(1566)、現在のプノンペンの北65kmのロヴェックに新たな都を造営した。そして1550年ごろ、アンコールの旧都を密林の中に発見するのである。アンコールの王たちが営々と築きあげてきた大寺院や都城が、いまや廃墟となった姿を目の当たりにするのであった。しかし、この廃墟のなかでアンコールワットだけは、いまだ民衆の信仰の対象である仏教聖地として崇められていた。その後、アン・チャン1世は1564年に、アンコール・ワットの壁面レリーフの未完成部分である、第1回廊北面と東面北側の作業継続を発令した。そしてその完成は、アン・チャン1世の逝去と同じ年、1566年に迎えることになる。その10年後に即位したサータ1(15761594)は、旧都アンコールに住人を移住させ、アンコール・トム内の建造物を改修・修復し、アユタヤ朝に奪われた旧領回復に努めた。アン・チャン1世からサータ1世にかけての約半世紀は、カンボジアを圧迫していたタイのアユタヤ朝が、新興勢力であるビルマのタウングー朝(15311752)に都を占領されるなど、一時的にアユタヤ朝の力が衰えている時期でもあった。しかしカンボジアの平穏も長くは続かず、16世紀末にはふたたびアユタヤ朝との戦いが始まり、首都ロヴェックが陥落する。それ以降、カンボジアは二度とアンコール期のような国力を回復することはできず、タイ、ベトナムに圧迫され、19世紀にはフランスに植民地化されるのである。

 長々と東南アジアの歴史情勢を解説したが、前節で提起した本題に立ち戻ると、アン・チャン1世、サータ1世は、なぜアンコール旧都の改修・修復を行ったのか、それにどのような意義があったのか、ということについて議論が必要である。そしてその議論は、わたしたちの日常生活の間隙で行われる過去へのあこがれとの比較を軸に展開されなくてはならない。さて、アン・チャン1世が密林のなかに眠るアンコールの遺跡群を目の当たりにした時、なにを考えたであろうか。さぞかし自らにつながる祖先の王たちが営々と築き上げてきた大寺院と都城址を前にして、その偉業の数々に身を震わせ、その血を受け継ぐ者としての重い責務を感じ取ったのではないだろうか。そしてかつてのアンコール朝の栄光を今一度、自らの手で四方に行き渡らせたいと思ったのではないだろうか。折りしもこの頃、アユタヤ朝はビルマの新興勢力との戦いに専念しており、カンボジアに対する支配力が緩んできた時期であった。タイに奪われたカンボジアの領土と栄光を取り戻すためには、武力で支配領域を押し広げると同時に、アンコールの王たる者に課せられた寺院建立を実施し、国家安寧の祭儀を執り行い、王の栄光と威厳を国内外に誇示することが必要である。しかし長年にわたるアユタヤ朝からの圧迫で、かつての国力を回復することができていない状況では、大寺院の建立は不可能である。そこでアンコールの偉大な王、スールヤバルマン2世の遺業を受け継ぎ、完成させることで、アンコールの王たちの血を受け継ぐ者としての自らの責務を果たそうと考えたのではないだろうか。アン・チャン1世の「過去へのあこがれ」は、未完成の状態にあったアンコール・ワット壁面レリーフを完成させることによって、かつての王たちの栄光を自らの手で取り戻すことを意味していたのである。王としての正統性の主張と過去の栄光の回復をめざしたアン・チャン1世の「想い」は、アンコール・ワットの回廊に刻まれて今に偲ぶことができるが、王朝の栄光の回復は未完に終わった。一方、冒頭でふれた黄門さまの想いはどのように位置づけられるだろうか。皇統の正統性を糾し、天皇を中心とする国家秩序を築こうとした黄門さまの想いは、その後「水戸学」に結実し、幕末には政治実践の精神的支柱となった。そして明治維新後、考古学は西欧から移入した科学的客観主義のなかで、新たに建設される国民国家の「正統性」、「固有性」を主張するためのイデオロギー装置としての性格を帯びていくことになるのである。

 

II植民地時代東南アジアの考古学−植民地の古代になぜ「文明」の資格を与えたのか?

 2つめの発掘物語は、カンボジアがフランスの植民地になった時代、フランス極東学院がインドシナの考古学調査の中心的役割を果たしていた頃の話である。

 サータ1世のアンコール修復によって活気を取り戻したカンボジアであったが、それもつかの間、ビルマとの戦いに勝利を収めたアユタヤ朝によってふたたび占領されることとなる。それ以降、カンボジアには失地を回復する勢いは失われてしまう。19世紀にはベトナム阮朝に併合され、さらにフランスの植民地となる。こうしてアンコール遺跡群は密林の奥深くに眠り、アンコール・ワットなどの一部の寺院は民衆によって崇められてはきたが、世界からは長い間忘れ去られた存在となってしまった。

 その後アンコール遺跡群が世界に知られるようになるのは、1860年アンリ・ムーオの報告が世に出てからである。西欧世界はアンコール遺跡群の規模の壮大さと芸術性の高さに驚嘆し、この世紀の大発見に心を奪われる。1907年、フランス・シャム条約によってアンコール遺跡群がタイ領から仏領インドシナに組み込まれると、フランス極東学院による本格的な調査・修復が開始されることになる。フランス極東学院は仏領インドシナなどの植民地をはじめとする東アジアの歴史・文化・民族の総合研究機関として1900年ハノイに設置された。アンコール遺跡群での研究活動は、遺跡の調査・保存・修復の過程で、碑文や美術様式の研究を行いながら、遺跡全体を史跡公園として管理・整備するというかたちで推進されてきた。碑文の発見・解読の進展によって、各遺跡の建造と王の在位の年代が徐々に明らかとなっていった。碑文が残されていない遺跡については、美術様式の変化に基づく相対編年によって、各時期に位置づけられていった。これらフランス人研究者によって行われた膨大な数にのぼる研究成果は『フランス極東学院紀要(BEFEO)』に発表され、古代カンボジアの歴史・考古・美術・宗教などに関して細密な知見が新たに構築されるようになった。フランス極東学院で活躍した研究者の名を挙げると、碑文研究により、古代タイ、カンボジアの歴史再構築に多大な貢献を成すとともに、スマトラ、マレー半島にかつてスリウィジャヤ王国が存在したことを明らかにし、長く極東学院院長を務めたセデス(G. Coedes)、中国文献の研究からアンコール碑文資料の欠落を補ったぺリオ(P. Pelliot)などをその代表として挙げることができる。この他にもパルマンチエやグロリエなど多くの優秀な研究者が極東学院を本拠として成果を発表していった。このような極東学院を中心とした組織的で緻密・詳細な調査・研究と膨大な資料の蓄積によって、アンコール遺跡群をはじめとする古代カンボジア史の再構築が可能となり、現在わたしたちはアンコールの歴史や美術様式と遺跡の変遷についての年表を手にすることができるのである。

 西欧人によって発せられたアンコールの崇高さ、壮大さに対する驚きや疑問は、わたしたちの過去への「想い」を遠い過去に回帰させたり、じかに遺跡を訪れてその「想い」を満たしてくれるだけにはとどまらない。西欧宗主国はひとつの巨大な知のシステムである『東洋学』を組織し、植民地の歴史・言語・文学・建築についての細密で膨大な研究成果を積み重ね、植民地の過去を自らの知の領域のなかに対象化することによって、「古代文明」への驚きと疑問を解消していった。こうして植民地の過去を掘り下げ、歴史の新たな「発見」に興味が注がれ、東南アジアの「古代世界」を再構成するに足る膨大で、緻密な知識が蓄積されていった反面、研究者がそこで生きる植民地の、現在の社会や文化が生成するダイナミズムにはアカデミックな関心は払われなかった。西欧宗主国のアカデミズムの関心は、社会的、文化的、そして経済的に「停滞した」植民地の現状ではなく、宗主国が今日的に達成しえた「輝かしい文明」と同等の価値を与えるに足る、植民地の「古代文明」にあった。

 ここで疑問なのは、宗主国フランスが19世紀に国民国家を形成していく過程で構築した「文明」という概念が、なぜ植民地の「古代」という特定の時期にのみ適用されるのかという点についてである。フランスにとって「文明」概念は、自由や平等と同様に、国民国家の崇高な理念として規定されてきた。しかしフランスに限らず西欧宗主国は一般に、一方で植民地の現実に対しては「停滞」や「未開」という負の価値を与え続けたにもかかわらず、他方で植民地の過去には自らが誇る理想としての「文明」という価値を付与してきた。この理由はいったいどこに求めることができるであろうか。そこには宗主国が知の領域において植民地の過去を現在と切り離して自らのものとする意志を感じることができる。その知の行為は、西欧宗主国がかつて、自国の領域からは遠く離れたギリシャ・ローマの古代遺跡を発掘し、自らの「輝ける過去」として発見して、その歴史を自分たちの現在に結びつけた時と同質の行為として論じられなければならない。このように遠く離れた場所の、あるいは植民地の「他者」の過去を、横滑りさせながら自らのもにしていく知的行為は、19世紀に創出された「国民」の新たな来歴を構築していくという「発明」的行為として位置づけられると同時に、植民地の過去の遺産の「真の価値」を見出し、植民地の現状としての「貧困」や「無知」を克服して、「文明化」への道を達成するという、帝国主義的支配の正当化のレトリックとしても作用する。そしてこのように宗主国と植民地で繰り広げられた、過去からの来歴、あるいは「伝統」をめぐる知の方法として考古学が構築されたのである。しかしいったん来歴や「伝統」が知のシステムのなかに組み込まれると、いつしかそれらは遠古から実体として存在してきたかのように振る舞い、たかだか百年余前の19世紀に「発明」されたという経緯は、わたしたちの記憶の彼方に埋没してしまったのである。

 

III国民文化としての東南アジアの考古学

 最後の発掘物語は東南アジアが植民地支配から脱して、国民国家を形成・維持する現代の物語である。具体例を挙げて説明する紙幅の余裕がないので要点だけ手短に述べたい。ここまでの話で理解できるように、わたしたちの過去へのあこがれが、ひとたび知のシステムと結びつくと、実はとても政治的な領域へ踏み込んでしまうということが明らかになった。わたしたちのあこがれの行き着く先は、過去のファンタジックな世界であるが、その場は同時に、保存すべき遺産と利益を生む文化的資本をめぐって政治的、経済的思惑が交錯する場でもある。すなわちファンタジーの生成を喚起する古代遺跡は、現実の欲望へとひとびとを引きつけるイデオロギーの磁場でもあるのだ。またそれ以上に、政治や経済などの現実の「粗雑な」領域とは異なり、これまで知の特権的世界として欲望の入り込む余地もないと考えられてきたが故に、わたしたちの過去へのあこがれをファンタジックに彩る正当性を与えてきた学問的世界もまた、権力やイデオロギーに深く関与してきたことを忘れることはできない。

 植民地支配を脱して独立を達成した東南アジアの国々における考古学は、新たに自らの国民国家を建設する過程で、ヨーロッパの植民地宗主国が文明化という未来予想図をもとにしながら過去をギリシャ・ローマに求めたように、自らの「来歴」の構築に寄与したのである。その作業はまず植民地宗主国に横領された過去の輝きを自らの現在へと引き戻すことから始まった。それによってかつての栄光の時代への回帰が、植民地時代の苦しみや政治的、経済的現状の悲惨さに対する「心の癒し」となって立ち現れることとなる。自らの過去が輝きに包まれていた「史実」を発見し、それを歴史的に「正しく」位置づけ、「事実」として国民に流布する役割を担ったのが、国民国家に寄与する考古学である。こうしたナショナリズムの枠組みのなかで、東南アジアのみならず日本の考古学も生まれ、「国民文化」の形成母体のひとつとして制度化され、そして現在でもカンボジア人や日本人、フィリピン人という国民的アイデンティティの形成と維持のために機能しつづけている。現在の苦境の乗り越えのひとつの手段として、栄光の過去へ回帰し、現状を癒し、未来への希望とする。このようなかたちで国民国家の時代の考古学は、「想像された共同体」の感情を共有する国民に、将来の指針を提示するのである。

 

おわりに

 考古学が対象とする遺跡はすでに植民地時代から観光産業の文化的資本という性格も付与され、わたしたちの過去へのあこがれを満たしてくれている。しかし現在の東南アジアの国々における遺跡は、「想像された国民」を政治的に統一する装置として機能していることも忘れることはできない。ここまで述べてきて、フィリピン考古学者であるわたし自身の課題が浮上する。すなわち国民を統合する政治的装置として、そして過去へ回帰したひとびとの心を癒し、栄光や輝きを提示し、未来への指針や勇気を与えてくれる「国民的」なモニュメントや「史実」が存在しないフィリピンにおいて、アンコール・ワットやボロブドゥールに代わる過去の輝きをどこに求めてきたかという問題を追求しなくてはならない。

 

参考文献

アンダーソン、ベネディクト

1997     『増補 想像の共同体−ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳 NTT出版

イ・ヨンスク

1995     『国語という思想 近代日本の言語認識』岩波書店

石沢良昭

1996       『アンコール・ワット』講談社現代新書

石沢良昭・生田滋

      1998     『東南アジアの伝統と発展』中央公論社

小川英文

      1999     「考古学者が提示する狩猟採集社会イメージ」『民族学研究』63-2:192-202

小熊英二

      1995     『単一民族神話の系譜−<日本人>の自画像の系譜』新曜社

小田亮

1996     「ポストモダン人類学の代価−ブリコルールの戦術と生活の場の人類学」『国立民族学博物館研究報告』21-4807-875

加藤剛

1993     「民族誌と地域研究−「他者」のまなざし」矢野暢編『地域研究の手法』:97-140、弘文堂

サイード、エドワード

1993     『オリエンタリズム』上・下、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社

1998     『文化と帝国主義』1、大橋洋一訳、みすず書房

坂井隆・西村正雄・新田栄治

1998     『東南アジアの考古学』同成社

酒井直樹

      1996     『死産される日本語・日本人−「日本」の歴史-地政的配置』新曜社

清水展

1998     「植民地支配の歴史を越えて−未来への投企としてのフィリピン・ナショナリズム」西川長夫・山口幸二・渡辺公三編『アジアの多文化社会と国民国家』:148-172、人文書院

ダジャンス、ブリュノ(石沢良昭監修)

1995       『アンコール・ワット−密林に消えた文明を求めて』創元社

中川敏

1996       『モノ語りとしてのナショナリズム−理論人類学的探求』金子書房

西川長夫

      1995     『地球時代の民族=文化理論−脱「国民文化」のために』新曜社

1997       『国民国家の射程−あるいは<国民>という怪物について』柏書房

山下晋司・山本真鳥

      1997     『植民地主義と文化−人類学のパースペクティヴ』新曜社

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