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子どものもつすべてのことばに光をあてる評価づくりをめざして ~小島祥美多言語多文化共生センター長インタビュー

研究室を訪ねてみよう!

今回インタビューを受けてくださったのは、外国につながる子どもが通う学校現場において活用しやすい評価ツールづくりのプロジェクトに尽力する本学?多言語多文化共生センター長の小島祥美先生です。東京外国語大学のボランティアサークルの一つ、「くりふ」に所属する国際日本学部?山本芽衣さんがインタビュアーとなり、小島先生のこれまでの取り組みや現在進行中のプロジェクトについてお話を伺いました。

インタビュアー:国際日本学部3年?山本芽衣
編集?執筆:言語文化学部3年?堀詩(広報マネジメント?オフィス 学生広報スタッフ?学生ライター)

取り組みの原動力

―――小島先生は長年外国につながる子どもの支援活動を行っているそうですが、その原動力やモチベーションを教えてください。

「外国籍児の不就学をゼロにしたい!」これが私の活動目標です。外国につながる子どもの教育課題に関心を抱いたのは小学校の教員時代で、その時の経験が今の原動力にもなっています。今から30年ほど前、私は学校が大好きだったので教員を志望しましたが、初めて着任した小学校で、学校が大嫌いと言うベトナムルーツの児童と出会ったんです。それは、ショックでしたね。最も衝撃であったことは、児童らのライフヒストリーです。ベトナムルーツの児童らとは、インドシナ難民の子たちでした。だから、留学生のように日本で勉強したくって日本の学校に来ているのではない、という現実を児童らと話していくなかで、私は初めて理解しました。

―――彼らのご両親との交流はあったのでしょうか。

そうそう、そのことも話さなきゃ。当時の日本政府は日本での定住を希望したインドシナ難民には日本語教育や就職あっせんを行っていましたので、私が出会った児童らの保護者たちは日本語の学習経験がある方々でした。そのため、簡単な日本語では意思疎通できましたね。でも、日本語での読み書きは難しかったです。日本の学校は、保護者宛てのお手紙が多いでしょ。保護者たちはその内容が理解できないことで、例えば明日の遠足の準備ができないなどの困難を抱えているということを知り、私はしばしば家庭訪問しながら、外国につながる児童らの学校生活のサポートをしていました。訪問の度に、保護者からはベトナムの食事をご馳走になりながら、来日に至った背景だったり、日々の生活の困難だったりなどの話をいろいろ伺いました。

ところで、ベトちゃんとドクちゃんをご存じですか。ベトナム戦争の時、米軍が撒いた枯れ葉剤の影響で下半身がつながった状態で生まれた双子です。彼らの分離手術は1980年終わりごろに日本で行われたということもあり、当時は連日そのことが報道されていましたので、当時中学生であった私もそれらのニュースを見ていました。ある日、ベトナムルーツの児童にベトちゃんとドクちゃんって知ってる?と聞いたんですね。そしたら覚えたての日本語でこう言われました。「そういう子は僕の周りにたくさんいるから、どの子がベトちゃんとドクちゃんなのかわからない」と。児童らが見えている世界が私とはまったく違う現実を知り、強いショックを受けました。

その後、フィリピンや南米ルーツの児童らとも出会いました。こうした児童らとは辞書片手に身振り手振りで、時にはイラストを描きながらの意思疎通でしたが、私は外国につながる児童たちからも保護者たちからも、たくさんのことを教えてもらいました。特に生まれ育った国のことだったり、食べ物のことだったりの話になると、児童たちはすごく嬉しそうな顔をしながら私に話してくれましたね。

聞き取り中の様子

―――日本で生まれ育った子どもは日本語を話せるようになりますよね。そのような子たちでも学校で疎外感を感じることはあったのでしょうか。

外国につながる児童らと出会う中で、普通教育である小学校のなかで日本語を習得することだけに特化した学習が子どもたちにとって本当に重要なのか、と徐々に疑問を抱くようになりました。小学校は、日本語学校ではありませんよね。日本語の学習を押し付ける前に、まずはこの子たちの背景をきちんと知らなくてはいけないんじゃないかって、考えるようなったんです。目の前にいる外国につながる児童らに、私ができることって一体何なんだろう。私も若かったんでしょうね。悶々とした毎日のなかで、自分ができることを考えたいという思いが大きくなっていき、教員を辞めて自分探しの旅に出ました。

―――自分探しの旅、ですか。

まずは学び直したく、大阪外国語大学(現:大阪大学外国語学部)へ進学しました。そして、児童らの出身地へ行ってみたいと思い、日本から遠いところからと南米に向かいました。帰国後は、阪神?淡路大震災後の復興にかかわるボランティア活動に参加しました。私の根幹には、外国につながる子どもたちの学びを守るために何ができるか。常に考えていましたね。神戸での活動を続けるなかで、1999年ごろのことです。学校に通っていない不就学の外国籍児たちと出会いました。そこで、その子たちを就学につなげたいと思って行政に掛け合ってみると、日本国籍のない子は就学義務の対象外だから手を差し伸べることはできないと言われたのです。何よりも驚いたことが、就学義務の対象ではないために、国内で暮らす外国籍児のうち何人が学校に行っているかすらもわからないという現実でした。

震災後の市民活動によって、神戸のなかでは外国人など日本語が母語でない住民に対する通訳や翻訳による支援の重要性は認識されてきました。ですから、「やさしい日本語」の使用などは、当時から日常化していましたよ。でも、行政からも社会からも「見えない」子どもたちについては、実態がわからないことで問題視されていなかったのです。そのため、外国籍の不就学児の救済が非常に難しい状況でした。

―――なるほど、日本の中で不就学に対する問題意識が形成されていなかったのですね。その後どうされたのでしょうか。

2000年に入った時、ミレニアム開発目標(MDGs)という言葉が台頭しました。SDGsの