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東京外国語大学のあゆみ

第3章 日清戦争と「外国語ニ熟達スルノ士」の養成~「語学専門なるも通弁たるなかれ」~

 日清戦争(1894-95年)後、極東におけるさらなる対外的発展を目指す日本にとって、海外事情に通じる専門家「外国語ニ熟達スルノ士」の養成が急務となります。1896年、帝国議会に「外国語学校設立ニ関スル建議案」が提出され、翌年高等商業学校に附属外国語学校が設立され、1899年に専門学校として独立を果たすこととなります。

◆1896年1月13日貴族院提出「外国語学校設立ニ関スル建議案」

[史料]
 征清ノ大捷ハ頓ニ中外交通ノ繁忙ヲ促スニ至レリ今日以後外政上ニ工商業上ニ及学術上ニ於ケル中外ノ交通ハ日ニ益隆盛ナラサルヲ得ス而シテ是時ニ際シ先ツ要スル所ノモノハ外国語ニ熟達スルノ士ナリトス然ルニ今日外国語学ノ教授ヲ以テ専務トスル所ノ学校ハ官私共ニ殆ト之ヲ見ル能ハス豈遺憾トセサルヘケムヤ故ニ政府ハ速ニ外国語学校ヲ創設シ英仏独露ヲ始メ伊太利西班牙支那朝鮮等ノ語学生ヲ育成セムコトヲ要ス依テ政府ハ適当ナル計画ヲ定メ之ニ要スル経費ヲ明治二十九年度追加予算トシテ本期ノ議会ニ提出セラレムコトヲ望ム茲ニ之ヲ建議ス
(貴族院議事速記録第四号『官報号外』1896(明治29)年1月14日)

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高等師範学校附属音楽学校及
高等商業学校附属外国語学校改称ノ件

 外国語学校「再興」の発端となったこの建議案では、日清戦争の勝利が「外政上ニ商業上ニ及学術上ニ於ケル中外ノ交通」、つまり外交?貿易?学術上の国際交流を活性化させ、「外国語ニ熟達スルノ士」の需要が高まっていることが指摘されました。加えて、「今日外国語学ノ教授ヲ以テ専務トスル所ノ学校」が無いことを「遺憾」とし、政府に対して「速ニ外国語学校ヲ創設」する計画の策定と必要な予算計上を求めています。

 また、この建議案では育成すべき「語学生」として「英仏独露ヲ始メ伊太利西班牙支那朝鮮等」を上げ、建議案提出後の補足説明では、日清戦争後の国際交流の具体例として、条約改正の交渉、清との貿易拡大、ロシア?朝鮮との関係拡大、将来的なシベリア鉄道開通に伴うヨーロッパとアジアの関係の変化の可能性、台湾領有後のスペイン領フィリピンとの隣接、ヨーロッパの新興国イタリアとの関係強化が挙げられています。

◆初代主任教授 浅田栄次の教育方針

 独立間もない東京外国語学校において、初代主任教授を務めた浅田栄次は、入学直後の新入生に対し、「語学専門なるも通弁たるなかれ、西洋の文物を学び世界的人物と作れ、アングロサキソンの精神を学べ人物養成を旨とす」と、語学習得には言語だけでなくその文化的背景も含めて理解深めることの重要性を説きました。

 また1900年第1回卒業生の送り出しに際して、浅田は祝辞「東京外国語学校第一回卒業生諸氏を送る」のなかで、「仮令ひ諸氏にして如何なる高貴の地位に昇るも、如何なる富豪の身となるも、又如何なる事業を執るに至るも決して自から外国語学者たることを忘るゝ勿れ、(…中略…)外国語を基礎とすることを忘るゝ勿れ」と、いかなる職に就いても「外国語学者」であること、「外国語を基礎とすること」を説きました。

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【左】浅田栄次【右】「東京外國語学校第一回卒業生諸氏を送る」(1900年)

◆東京外国語学校の設置「建学」「創立」「独立」

 東京外国語大学の歴史のなかには、東京外国語学校が経た統廃合による分断と、二度にわたる設置、そして高等商業学校からの独立という紆余曲折の歴史を踏まえ、他の学校ではあまり例を見ない「建学」「創立」「独立」という三つの節目が存在します。

 過去に学内で催された周年行事については、15周年?25周年?60周年の式典は1897年の設置を記念して、80周年の式典は1899年の独立を記念して挙行されており、その起点は曖昧なままでした。そのため、1990年代後半に始まった『東京外国語大学史』の編纂に際して、この起点について整理が進められ、
1873年 東京外国語学校の「建学」
1897年 高等商業学校附属外国語学校の「創立」
1899年 東京外国語学校の「独立」

と呼称することが決定されました。2023年に「建学150周年」を迎えました。

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