歴史?沿革

東京外国語大学は、2023年(令和5年)に建学150周年を迎えました。

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大学の歩み

明治6年4月 文部省制定の「外国語学校教則」の表紙(右) 「明治7年3月 東京外国語学校官員並生徒一覧」の表紙(左)

 東京外国語大学は、江戸時代1857年に幕府により開校された蕃書調所をその起源とし、東京外國語學校、東京外事専門學校、東京外国語大学とその名称を換えながらも、150余年の長きにわたり外国語と外国地域事情に関する教育と研究を実践してきました。

 1853年(嘉永6)、ペリーが浦賀に来航し、翌年和親条約が締結されると、老中阿部正弘は軍事強化と外交文書の翻訳などのため、洋書翻訳?洋学研究?洋学教育を行う研究?教育機関の設置を進めます。1857年(安政4)正月18日、「蕃書調所」は幕臣191人を生徒として開校されました。その後、名称を「洋書調所」「開成所」と変遷し、新政府により1869年(明治2)正月、「開成学校」として再開校されました。開成学校は「大学」と改称され、のちに東京大学となりました。
 1873年4月、文部省は「学制二編追加」を布達し、通弁養成と専門学校に入るための教科を提供する「外國語學校」が設置されました。東京外国語学校は「大学」語学所と外務省の外国語学所を併せて、英独仏露清の5学科からなる官立外国語学校として建学されます。
 富国強兵?殖産興業が推進されるなか、「語学ハ商業ニ附属」する学問とみなされ、1885年東京商業学校へ統合され、翌年廃校となります。しかし、日清戦争を経て、東アジアにおける対外的発展を目指す日本にとって海外事情に精通する「外國語ニ熟達スルノ士」の養成が急務となります。1896年、帝国議会に「外國語學校設立ニ関スル建議」が提出されると、翌年には高等商業学校に附属外國語學校が創立され、1899年、ついに東京外國語學校として分離独立を果たしました。

明治32(1899)年に高等商業学校から独立し、校舎を神田錦町3丁目14番地に移転した東京外国語学校の正門と校舎 ー『PER ANGUSTA AD AUGUSTA 1913』より

 独立後の外國語學校は、日本の軍事?経済政策に大きく寄与することで、発展の途を歩みます。1904年に始まる日露戦争においては、陸海軍の求めに応じ軍事通訳の養成に協力し、戦後はアジアを中心とする各方面への商人?企業家の海外進出を支援するため、短期間で商用外国語を教授する速成科を新設しました。
 他方、1917年(大正6)末「東京貿易植民語學校」への改編を巡る議論をきっかけに、本学は文科?貿易科?拓殖科の3科制を導入し、1927年には修業年限を3年から4年へと移行します。こうして専門學校ではありながらも外国語と地域事情の双方の教育?研究を柱とする本学の学術基盤が整備されて行きました。
 戦中の1944年(昭和19)には、修業年限3ヵ年の東京外事専門學校へと改変され、多くの学生が出征により十分な教育?研究の場を得られぬまま、戦後を迎えます。

戦災復旧校舎

 戦後、新制学制の施行に伴い、1949年本学は四年制大学へと改組し、ここに東京外国語大学が発足しました。校名には「外国語」の名を復活させる一方で、英文名を「Foreign Languages」から「Foreign Studies」へと変え、「外国の言語とそれを基底とする文化一般」を研究?教授することが目指されました。

 本学は外国語への関心の高まりと日本の経済発展に伴い、学科を増設し、学生数も増加してゆきます。同時に、1964年には大学附置施設としてアジア?アフリカ言語文化研究所が、次いで大学院が設置され、日本有数の海外地域研究の拠点として発展してゆきます。他方、日本の国際社会復帰に伴い、国際社会への貢献を目的に国費外国人留学生制度が整えられてゆくなかで、本学は外国人留学生の受け皿となる教育機関としての役割をも果たして行きます。

西ヶ原キャンパスの前庭と講堂、1号館、図書館

 そして大学改革が叫ばれる90年代以降、東京外国語大学は大きな転換期を迎えました。1995年(平成7)にはより広範な地域文化の研究?教育体制の構築を目指す大学改革が、2000年には「世界に開かれたキャンパス」を目指し府中キャンパスへの移転が達成されました。そして、2012年には「言語文化学部」「国際社会学部」の二学部制が導入され、2019年には「国際日本学部」を設置し、外国語と地域研究を基盤とする本学の伝統ある教育?研究体制は、今日一層の充実を見ています。

現在の府中キャンパス

年表

1873年 11月4日 東京外国語学校(官立)、第一大学区東京第四大区二小区一ツ橋通町一番地に開設。5学科(英?仏?独?露?清語)を設置
1874年 12月24日 英語学科が東京英語学校設置に伴い同校に移行、よって4学科(仏?独?露?清語)となる
1880年 3月 朝鮮語学科設置
1884年 3月26日 東京外国語学校に所属高等商業学校を設置
1885年  8月14日 仏?独語学科が東京大学予備門に移行、よって3学科(露?清?朝鮮語)となる
9月22日 東京外国語学校及び同校所属高等商業学校と東京商業学校が東京商業学校として合併
1896年 1月 第九帝国議会において衆議院及び貴族院の両院が外国語学校の開設を建議
1897年 4月22日 高等商業学校に附属外国語学校附設
7学科(英?仏?独?露?西?清?韓語)を設置。修業年限3年
1899年 4月4日 高等商業学校附属外国語学校が東京外国語学校(神田錦町3丁目14番地)と改称されるとともに、文部省管轄3官立専門学校の一つとして独立
伊語学科を設置し、8学科となる
1911年 1月 新たに5学科(蒙古語、暹羅語、馬来語、ヒンドスタニー語、タミル語)を設置し13学科となる
韓語学科を朝鮮語学科に改称
1913年 2月20日 神田大火により校舎全焼
2月24日 文部省修文館のほか東京高等商業学校分教場の一部を借用し、授業開始
9月5日 本校敷地内に仮校舎を新築
清語学科を支那語学科に改称
1916年 1月17日 葡語学科を設置し、14学科となる
1919年 9月4日 各学科の名称を部に改正、各部を文科、貿易科、拓殖科に分ける
1921年 4月10日 麹町区元衛町一番地の新校舎に移転
1923年 9月1日 関東大震災により附属建物を除き全焼
11月1日 牛込区市ヶ谷の陸軍士官学校の一部を借用し授業開始
1924年 3月3日 麹町区竹平町一番地の元文部省跡の新築仮校舎に移転
1927年 3月28日 朝鮮語部廃止により13語部となる。修業年限4年に改正
1940年 7月24日 滝野川区西ヶ原町の元海軍爆薬部跡に木造校舎を新築
1941年 5月21日 暹羅語部を泰語部に改称、暹羅語を泰語に改称
1944年 4月26日 東京外事専門学校と改称。修業年限3年に改正
第一部(支那、蒙古、タイ、マライ、インド、ビルマ、フィリピン、イスパニヤ、ポルトガルの9科)及び第二部(ドイツ、フランス、ロシヤ、イタリヤ、英米の5科)を設置
別科として専修科(修業年限2年)及び速成科(修業年限1年)を設置
5月31日 麹町区竹平町一番地から書庫を除き滝野川区西ヶ原町の新築校舎に移転
1945年 4月13日 戦災により校舎等全焼
5月 戦災により校舎等全焼のため下谷区上野公園東京美術学校、図書館講習所、美術研究所内に移転。7月から授業開始
1946年 6月1日 板橋区上石神井1丁目216番地の智山中学校校舎の一部借用
7月22日 支那科を中国科に、タイ科をシャム科に改正し、支那語を中国語に、タイ語をシャム語に改称
8月1日 板橋区上石神井1丁目79番地の東京工業専門学校の電波兵器技術専修学校跡を借用して移転し、9月から授業開始
8月16日 マライ科をインドネシヤ科に、フイリピン科をフイリッピン科に改称
1949年 3月23日 北区西ヶ原町の校地に戦災復旧木造校舎を新築
5月31日 国立学校設置法の施行により東京外国語大学設置(東京外事専門学校を包括して設置)。修業年限4年。
6月1日 12学科(英米、フランス、ドイツ、ロシヤ、イタリヤ、イスパニヤ、ポルトガル、中国、蒙古、インド、インドネシヤ、シャム)を設置
8月30日 元ブラジル駐剳特命全権大使澤田節蔵、初代学長に就任
1951年 3月31日 東京外事専門学校を廃止
1954年 7月5日 外国語学部に海外事情研究所を開設
9月 留学生別科を設置。修業年限1年。
1955年 12月16日 初めての選挙により教授岩崎民平が第二代学長に就任