第7章 高度経済成長と国際的人材に対する需要の高まり
戦後、高度経済成長を迎え、日本が国際社会へと復帰していくなか、外国語と外国事情に通じた国際的人材への需要は高まっていきます。そうした社会的な需要、とりわけ国際貿易の拡充を中心とした新たな「国策」に応じて、本学では語科の新設や定員の拡充が進められます。
また「二期校」として位置づけられた本学には多くの受験者から出願申込があり、1955年には定員の24.14倍もの受験者からの申込がありました。
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【左】東京オリンピック1964における学生たちの活躍(1964年) 【右】留学生課程授業風景(1964(昭和39)年)
◆学科の新設と定員の拡充~イスパニヤ学科の増員~
1957年、入学志願者数が増えていくなか、他の「学科」に先駆けて、当時「第五部第一類(イスパニヤ語)」と呼ばれていた「イスパニヤ学科」の学生定員の増員が進められます。1957年度の概算要求書によると、その理由は「国際情勢の好転に海外特に中南米方面への進出を希望する者極めて多く」なり、入学志願者が急増していること、「貿易商社等南米に関係のある向より卒業生の需要とみに激増し、求人申込に応じ切れぬ現況」があるとされました。
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『昭和32年度概算要求書』の「イスパニヤ語 専攻学生増募」(1957年) |
◆大学改革の「芽生え」ともなった学園紛争
学園紛争の時代において、東京外国語大学は、東京大学?東京教育大学と並び、国立大学の「最重症三大校」と呼ばれました。構内は学生のバリケード封鎖により占拠され、一時は入試の実施が危ぶまれるほどの混乱が生じます。最終的には、封鎖解除に向け機動隊が導入されました。その後、紛争の影響は1970年代まで残りました。
他方で、学園紛争はその後の学内改革の契機にもなりました。紛争中の1968年12月には、新制大学発足以来の「外語大の性格そのものの再検討」が表明され、学内封鎖解除後に、改革の方向性について議論が始まります。そうした議論の一部は1990年代以降の学内改革へとつながりました。
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【左】学園紛争により占拠された校内の落書き(1969年)【右】機動隊による封鎖解除(1969年)
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