70年越しの卒業証書
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2015年10月31日(土)、第7回ホームカミングデイ&建学記念会にあわせ、戦後70年を記念し、戦中?戦後の卒業生への卒業証書授与式が行われました。
戦後70年となる今年、本学では大学文書館を中心に、戦中戦後の資料の整理や、当時在籍された卒業生への聞き取り調査などを実施しています。その調査の中で、戦中で卒業式が行われなかった或いは戦争直後の混乱期で卒業証書を受け取れなかった方が未だ多くおられることがわかり、9月に交付希望を募りました。対象はおもに1944年~1946年卒業の方といたしました。その結果、12名の方から交付希望をいただき、この度「卒業証書授与」を行うことになりました。またこの過程で、さらに1944年以前の卒業生の方のなかにも、卒業証書未受理の方がいらっしゃることがわかり、今回むのたけじさん(100歳)と遠藤陽三さん(97歳)のお二人の方に合わせて卒業証書を授与することとなりました。
授与式にはご本人5名とご遺族の方1名が出席され、証書を受け取られました。
式では卒業証書授与に続き、立石学長が式辞(下記全文掲載)を述べました。さらに、笹岡太一さん(1946年支那科卒、写真左)と武野武治さん(1936年西語部文科卒、写真右)から卒業生を代表しご挨拶をいただきました。最後に在学生から卒業生へ花束が贈られました。
本卒業式は、ホームカミングデイと合わせて行なわれました。戦争を直接知らない在学生や卒業生の方々に当時の学生の状況を知ってもらう機会ともなりました。
卒業証書授与者
武野 武治(むのたけじ)さん
東京外国語学校?西語部文科、1936年3月卒業。現在100歳。
卒業する年の2月末に「2?26事件」が発生。当時皇居の堀のすぐ隣にあった東京外国語学校の周辺には兵隊がいて近づけなかったとのことです。武野さんは卒業後、報知新聞を経て朝日新聞の記者となり、終戦の1945年8月15日に戦争責任を感じて朝日新聞を退社。その後地元の秋田に戻り週刊新聞『たいまつ』を創刊。反戦の立場から言論活動を続けています。卒業生代表挨拶で「軍国主義に個人が翻弄される惨めな時代だった」、「感謝と尊敬を母なる学校に捧げたい」と熱く語っていただきました。
遠藤 陽三さん
東京外国語学校?佛語部貿易科、1941年12月卒業。現在97歳。
1941年12月7日(日本では8日未明)に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲して太平洋戦争が開始され、1942年3月卒業予定者は、3ヶ月繰り上げて卒業することになりました。遠藤さんも、そのお一人でした。
高橋 稔さん
東京外事専門学校?フランス科、1944年9月卒業。現在95歳。
高橋さんは1944年9月に繰り上げ卒業となりました。同級生より少し年齢が上であったため、1943年に在学のまま召集され、入隊したそうです。堪能な語学を見こまれ派遣軍本部参謀部暗号斑に配属、戦後も米空軍基地などで通訳や翻訳などを務められました。
故?永野 秀二さん
東京外事専門学校?イスパニヤ科、1944年9月卒業。逝去。
永野さんは、高橋さん同様、1944年9月に学徒出陣のため繰り上げ卒業、1945年8月に満州の虎頭で戦死されました。ご遺族の希望により卒業証書を発行することになりました。授与式には、御甥様が出席くださいました。
笹岡 太一さん
東京外事専門学校?支那科、1946年3月卒業。現在91歳。
笹岡さんは、1945年1月に徴兵され、香川県にあった陸軍の船舶幹部候補生隊に配属されました。そのまま終戦を迎え、終戦後、東京に戻り翌3月に卒業。戦後の混乱の中で卒業式への出席がかなわなかったとのことです。卒業生代表挨拶では、「卒業証書を手にすることができないまま死んでいった仲間の分も受け取ったと思います」と話されました。
堀川 敏雄さん
東京外事専門学校?マライ科、1946年3月卒業。現在92歳。
堀川さんは、1943年10月21日に明治神宮外苑競技場で開かれた学徒出陣の壮行会に参加?行進。語学が堪能だったため、海軍軍令部の情報士官になり、米国側の情報を分析しました。広島の原子爆弾投下を伝えるラジオ情報もいち早く受け取ったと証言されています。戦後は共同通信の記者などを務められました。
その他、次の8名の方々(3名のご遺族又は代理の方含む)から卒業証書交付願いをいただきました。郵送により授与の予定です。(括弧内は、語科、卒業年月、授与式現在のご年齢)
- 太田 良吉さん(タイ科、1944年9月卒業。現在92歳)
- 故?中村 政一さん(フランス科、1945年3月卒業。ご逝去)
- 岩﨑 雄二郎さん(ポルトガル科、1946年3月卒業。現在90歳)
- 大兼 利夫さん(支那科、1946年3月卒業。現在91歳)
- 加納 定之さん(イスパニヤ科、1946年3月。現在90歳)
- 近藤 金三郎さん(支那科、1946年3月卒業。現在92歳)
- 清水 圭造さん(蒙古科、1946年3月卒業。現在91歳)
- 故?高橋 彦明さん(フランス科、1946年3月卒業。ご逝去)
学長式辞(全文)
戦後70周年にあたる今年のホームカミングデイに、戦前から戦後にかけての混乱期に卒業証書授与の機会を逸した私たち東京外国語大学の大先輩の方々をこの会場にお招きし、ただいま、あらためて卒業証書を授与することができました。東京外国語大学長として、たいへんに光栄に存じます。
さて本学は、1873年の官立東京外国語学校の設立を建学の年とする、日本でもっとも古い大学のひとつでありますが、爾来、140数年の歴史は決して平坦ではありませんでした。
本学は「外国語」という名称を校名にもつ現在では唯一の国立の高等教育機関であり、その基本的使命は当然のことながら外国語の研究教授であります。しかし、我が国において外国語を学ぶということ、つまり「外国語学」へのとらえ方は一様ではなく、建学のときから常に異なる見解を内包しており、本学の歴史もまた紆余曲折をたどることになりました。端的に言えば、外国語修得を、外国との商業活動?経済活動にとって不可欠のツールとする見方と、外国文化の理解にとって必須の基盤であるとする見方が併存し対立していました。建学後の時期には、前者の見方が強まるなかで東京外国語学校は、東京商業学校に統廃合されるという辛い経験をしています。1899年には、東京外国語学校として分離独立を果たしましたが、この再出発の土台作りに奔走したのが、英語科教授?教務主任であった浅田栄次博士でした。今年は浅田博士の生誕150周年にあたり、感慨深いものがありますが、浅田博士は、外国語修得の相対立する見方を克服すべく努められ、「語学専門なるも通弁たるなかれ、西洋の文物を学び世界的人物と作(な)れ。アングロサキソンの精神を学べ。人物養成を旨とする。」と学生たちに訴えて、まさに世界に目を向けたグローバル人材の育成を逸早く唱えたのでした。
こうした言語とその精神の理解を統合した教育機関として本学は再出発したのですが、20世紀に入ってからも紆余曲折は続きました。本学は、通訳?貿易の各方面での活躍を期待され、教育機関として文化を必ずしも重視しない方向への歩みを求められました。1917年には、ときの文部省が、本校を「貿易殖民学校」へと改称?改組する方針を打ち出しましたが、校友会?同窓会による校名存続運動のおかげでその変更を阻むことができました。同年12月21日『朝日新聞』に掲載されたコラムは、「語学といふは通弁やガイドの用に許(ばか)り立てるものではない。国語の生命は思想である。」と述べて、「外国語学校」の名称を、つまり浅田博士の唱えた外国語学の神髄を擁護しました。
しかし時局の悪化が進む中、本学の基本精神を維持することはますます困難になりました。第二次大戦中の1944年には、「東京外事専門学校」へと改編され、多くの学生が十分な教育?研究の場を得られぬまま、学徒出陣に駆り出されました。昭和16年から昭和18年にかけて本学は922名の入学者を数えますが、そのうち691名が出陣学徒となり、少なくともそのうち222名が戦地で命を落としました。
その一人が、フィリピンのルソン島で21歳の若さで戦死した瀬田万之助さんですが、死の二日前に郷里の両親にあてた彼の手紙が、戦没学徒の遺書を集めた遺稿集『きけ わだつみの声』に収められています。
?マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時の海を眺めていますと、どうしてわれわれは憎しみ合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的になります。避け得られぬ宿命であったにせよ、もっとほかに、打開の道はなかったものかと、くれぐれも考えさせられます。あたら青春を、われわれはなぜこのようなみじめな思いをして暮らさなければならないのでしょうか。若い有為(ゆうい)の人びとが次々と戦死していくことはたまらないことです。中村屋の羊羹を食べたいと今ふっと思い出しました。?
私たちの大学は、こうした悲惨を繰り返さないために、新しい日本を担う国際的人材を育成するために、1949年、新制大学としてのスタートを切りました。そして大学の目的を、「世界の言語とそれを基底とする文化一般につき、理論と実際にわたり研究教授し、国際的な活動をするために必要な高い教養を与え、言語を通して世界の諸地域に関する理解を深める」と謳いあげました。本学は、こうした伝統ある長い歴史を着実に踏まえて、21世紀日本のグローバル化を牽引する大学として努力してまいります。
本学の伝統を築き上げてこられた大先輩の皆様に、この場を借りて厚く感謝するとともに、皆様のご健康とご長寿を祈念して学長の式辞とさせていただきます。
2015年10月31日 東京外国語大学長 立石博高